学校給食は必ず変えられる
私が保育所(公立)栄養士を辞めた理由
香川支部 大佛早苗
第1回 「学校給食と子どもの健康を考える会との出会い」
中学の頃に父親を癌で亡くして以来、病気の早期発見や予防事業に携われないものかと漠然と考えていました。その後栄養学部を卒業し、管理栄養士と臨床検査技師の資格を取得、町の職員なら町民の検診事業や健康作り事業に携われるかもと考え、採用試験を受けました。ところが4月に配属となったのは町立保育所。大学時代、病気に関する授業は沢山あったけど、子どもに関する授業の記憶は薄かったのが当時の現状でした。今思えば、そんな状況でプロの資格を持てること自体に問題もあると思いますが・・。そして最初の1年は、40年以上勤めていた調理員さんや自分の母親世代の調理員さん達に囲まれ、調理・清掃・事務作業に追われていました。
そんな中、平成11年の4月、普段の研修・講演会と同じ感覚で出かけたシンポジウムで給食の会を知りました。もし、その日に仕事があって出席できていなければ、私の人生は変わっていたかもしれない、そんな風に思えるほどの転機だったと今になると思います。衝撃を受けたシンポジウムは以下のような内容で、今でもはっきりと思い出せます。
・ 佐藤初女先生の特別講演「おむすびの祈り」食材を「物」として捉えるのではなく、「命」を頂くと考え食材をいかした調理を行い、感謝して食べる。心と身体を癒す食事の原点を教えてもらえた。
・ ビデオ上映「食卓の影の星条旗―米と小麦の戦後史(NHK)」 戦後に始まった給食の裏事情・アメリカが自国の余剰農作物を大量に日本へ輸出する為 の戦略・したたかさを初めて知った。
・ 幕内先生の基調講演「完全米飯給食が子どもの健康と日本の農業を守る」 パン給食の問題点を知り、それまで何の疑問も持たずに、給食でパンを出していたこと が、恥ずかしくなった。
・ パネルディスカッション「食べることは、生きること」歯科医師・医師・教育長それぞれの立場からの見解を聞くことが出来た。 「子どもの健康をはずしての学校給食はあり得ない」と給食改善に取り組んだ高知県南 国市の実例は、私がその後に進むべき道筋を与えてくれた。
この時のシンポジウムがきっかけで、日常茶飯事(小冊子)やおむすび通信と出会い、鈴木猛夫先生の本で日本人の食生活が変わっていく歴史を、また島田彰夫先生の本でヒトの食性を学ぶことが出来たのは、私にとってとても大切な財産です。そしてこの出会いが、給食を変えていこうという原動力となり、その後なかなか職場での理解が得られず悩んでいた私を支えてもくれました。その当時に地方の町で、参加者1200名という大きなシンポジウムを開催してくださった方に改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
次回から「給食の会で教わったこと」「公立施設での葛藤」「今後の活動方針」などを書いていけたらと思っております。
(つづく) (『おむすび通信71号』より)
第2回 学校給食と子どもの健康を考える会で学んだこと
【栄養士の仕事って罪深い!?】
実は、本会に出会ってから、栄養士の仕事が恐ろしくなりました。と言うのも、今まで正しいと思っていたことがひっくり返された訳ですから。それまでの1年間の自分を振り返ってみて、なんと無責任で迷惑な栄養士だっただろうと・・・。給食便りには「1日30品目を食べましょう!」と書いていたかもしれません。今思うと、本当に申し訳ない気持ちです。 そして今現在も、「牛乳を飲みましょう!」「子どもが嫌いな野菜はみじん切りにして、チャーハンに入れて食べさせましょう(=油まみれ)」と声高々に指導する栄養士・そしてそれを信じて頑張るお母さん達が居り、アレルギー体質の子・肥満児・高脂血症児が誕生していることを思うと、栄養士とはなんて恐ろしく罪深い仕事だろうという思いを益々深めます。 しかしながら、全国の各栄養士会では一年を通して生涯学習と銘打った勉強会を開催しています。そして、休日の開催にもかかわらず、熱心に参加する栄養士が大勢いるのです。きっと上記の栄養士も熱心に仕事に取り組んでいらっしゃるのでしょうし、怠けているつもりはないのでしょうが、給食の会に出会ってから、日本の栄養学(教育も含めて)の問題点や栄養士の陥りやすい誤り、欠けている点、栄養士に必要なことが段々と見えて来ました。
【栄養学の問題点】
栄養学は本来、其々の地域において発達するものであり、他の国の栄養学を借りてきても日本人には適さないし、そもそも人間に必要な栄養素がどれだけあるかすら本当は分かっていない中で、細かな数値合わせを大前提とする献立作成方法・栄養指導の無意味さを感じるようになりました。
【陥りやすい誤り・情報に踊らされる栄養士】
日本人の食生活に与えた過去の出来事を教えてもらう中で、情報は簡単に操られてしまう事を知りました。操る物は「作物を売りつけたい外国の思惑」や「研究者の面子」「業者の思惑」と多岐に及ぶ中で、その裏事情に気付かずに、入れ知恵され続けた知識をもとに仕事に励む栄養士が存在します。それを防ぐためには、歴史を学ぶこと・根拠がしっかりしたこと以外は発言しないこと・勉強会で学ぶ際でも冷静な目が必要だと思いました。
【欠けている点・有資格者として情報を発信する場合の自覚・責任感】
牛乳ひとつを取ってみても、色々な意見があるにも拘らず、「牛乳は絶対に必要ですよ」と勧める栄養士には、そのことが間違いだった場合に、相手の人生を背負うだけの覚悟を持ち合わせているのだろかと思う事があります。相手への影響力・責任を考えた時、栄養士に出来ることは勉強をし続けること。それが責任の果たし方だと思います。また、1日30品目を食べましょうと言い続けた国が2000年から言うのを止めたけれども、国民の頭の中にはしっかりと染みついている。それならば、言うのを止めた理由をきちんと説明するのが、義務であり、責任を果たすこととなるのではないかと考えます。私ごときが偉そうに言ってみましたが、こういった点も含め、大局的に栄養士としての仕事を見つめるヒントを給食の会が与えてくれました。このことは、私にとりまして大きな糧となっていますが、この糧を公務員の中では上手く活かすことが出来なかったことは今でもとても残念です。次回は、一刻も早く給食の改善をといきんだ結末(失敗談)をお話したいと思います。
(『おむすび通信72号』より)
第3回 公立施設での葛藤
【異動というシステム】
公務員に限った事ではなく店舗等でも、異動があると意見や質問・苦情があっても「当時の担当者が今は・・」とかわされ、思いを伝えられないままで諦めてしまう時があります。異動にはメリットもあるけれど、責任逃れの手段になっているのか?と思ってしまうことがあるのも事実です。
また、公務員は変化・変革・前例のないことを嫌うと、時々耳にします。公務員・公立施設が全てこんな体質だとは思いませんが、私が勤めていた現場は、残念ながら変化を嫌う体質でした。給食の改善が達成できなかったのはこの体質のせいだったとは申しません。ただ、地方都市郊外の一つの施設で私自身が感じた壁を、率直に綴ってみたいと思います。
【変化を嫌うが為に変化は人のせいにする】
まず入庁してすぐに驚いたのが、保育所調理員の4月1日付けの人事異動が「私(大佛)の希望によるもの」と福祉課から調理員に報告されていたことでした。それまで異動が全くなかった方たちは困惑気味です。実際は4/1まで保育所に配属されることすら知らなかった私は、異動に関しても何も知りませんでした。
そして、食材の納入業者が変わったことは調理員から業者の方へ「新入りの私の意見」と報告されていました。
どちらも変化の原因を先方が知らない者に設定することで、当人達は責められないようにする為の手段だったと私は理解しています。この頃から私は大人不信に陥ったのでした(笑)。
【意見を話し合う場にならない給食検討会】
月に1回、町内4保育所の所長・調理員との給食検討会がありました。その中で、献立表のレイアウトを変更してもいいかを尋ねアドバイスを求めると、ニコニコと「どうぞどうぞ任せます」。ところが、後でなんだか様子がおかしい。
それから数年後、今度は給食改善の思いを会の場で伝え始めましたが、やはりニコニコ。意見・異論は聞けません。けれども裏では「前例のないことは出来ない。管理栄養士を注意して欲しい」と福祉課上司へ電話。表立っての議論を好まない女性体質(勿論人によります)を垣間見て、この頃から私は女性不振に陥ったのでした(笑)。
【公務員時代の夢】
人事異動の参考資料として毎年提出する書類がありました。その抱負の欄に「世間が現代の栄養教育に疑問を感じ始めた時、『理想的給食がここにあった』と注目される保育所にしたい」「日本一健康と注目される町にしたい」という夢を毎年綴っていました。
町民にダンベルを配り医療費削減に結び付けた町や、完全米飯給食を実践し教育を甦らせた町の例を聞くと、励みに思ったものです。
【実際の働きかけ】
まずは、現場の職員との意思疎通が大事だと、職員会議の場で徐々に思いを伝えていきました。
「パン・牛乳屋さんに申し訳ない」(給食は子どもの為じゃなくて業者さんの為なの?)
「和食は良いと思うけど、前例のないことは出来ない」(何故?前例って何?南国市の米飯給食実践例を出してもそれは特例とのこと。)
「この頃の子は食べないでしょ~」(では、県の監査や参観等の日に和食献立に変更するよう命じるのは何故?)
「父兄から文句が出るのでは」(保育や食事に対して保育所側の理念はないの?)
出来ない理由は沢山出て来ます。
トップの考えが変われば、事は一気に進む可能性があると、町長や教育長へのアプローチも行いました。幕内先生の講演会にお誘いしたり、著書をお渡ししたりしましたが、返事は頂けませんでした。
【反省点】
私が勤務するまでは、保育所の調理員は保育士のお茶くみ・雑用係兼給食作りといった様子でした。そんな中に私が入り、管理栄養士一人対保育士大勢といった構図が少なからずあり、常に構えてしまっていたかもしれません。もっとフレンドリーな関係を築けていれば、「こんな本を見つけました~」と軽く本を渡すことができ、同調する人を見つけられたかも、と今は思います。
しかし、なんだかんだ言っても前号の吉田保育所さんの記事(給食改善をすぐに実行)を読むと、結局は自分の力が足りなかったことに尽きると思うのでありました。(『おむすび通信72号』より)
第4回
【在職中に実践出来たこと・出来なかったこと】
なんだかんだ言いながらも、一人職種という事で、献立をそっと変えていくことは可能でした。
・週に4~5回のパン食を月に2回程へ
(主食の集金方法や、提供方法などを変え、そっと米飯回数を増やせるような準備をしてから実行)
・おやつのスナック菓子はお煎餅・果物などに変更
・昼食時の牛乳の回数は毎日から月に2回程へ
(お汁がある日に牛乳を飲むとお腹がチャプチャプになるから等、差し支えの無い理由で)
意見を話し合いたくても、かわされてしまう現場で、それ以上の働きかけは自分の体力を消耗するだけのこと。まして、説明して分かってもえるだけの力が無いことを思うと、いつの頃からか、そっと献立を変えていく手段に出ていました。その為、毎日のおやつをおにぎりに変更したり、完全な米飯給食にする等の根本的な変革は出来ず、表面だけの改善に留まりました。
また視点を変え、地元JAに働きかけて、食材の作り手が見える給食に活路を見出そうともしましたが、何の根回しもなく動き回っても、進展はありませんでした。前号の吉田保育所さんの記事で「協議会が中心となって地域と保育所をつなげる仕組みに取り組んでいる」という状況をみると、実力も無いのに何でも一人でしようと欲張り過ぎていたことに反省です。もっと声を発信し、仲間を集いながら進めることが必要だったと思います。
【給食の改善を急ぎたかった理由】
子どもの成長は待ってはくれないという思いはいつも持っていました。そして、それと同時に迫っていたのが、平成の大合併でした。合併後には、其々の町からの栄養士が集まり、其々の献立も集まってくる。栄養学を学んできた人達に説明をするよりも、理屈ではなく「この献立、栄養素にがんじがらめに囚われた献立よりも、自然な食事でしょ。」と実践例を示したかったのです。
【辞める時の葛藤】
辞めた理由は、立派な志があった訳ではなく、体調を崩して片耳が聞こえなくなったことがきっかけでした。まだ合併前だったこともあり、「合併後も仕事を続ければ市全体の給食・食事指導に携われるという期待感」と「他の栄養士さん達との考え方の違いへの不安感・続けることで両耳が聞こえなくなるかもという恐怖感」との狭間で揺れながら、続けるべきか辞めるべきか悩みました。そして最終的には、常日頃から「組織の中からより外から給食改善を働きかけた方が変化は可能かも」と感じていたことや、自身の体調・家族への配慮から辞めることを選択しました。
辞めた後も、本当に良かったのだろうか・・と自問自答することもありましたが、その判断が正解だったかどうかは、その後の行動によって後から決まるものだと、ふと気付かされ、今に至っています。
【辞めてから気づいたこと】
在職中は、家と職場との往復で、職場の人の理解を得ることしか頭にありませんでしたが、今、活動していていると、職場に関わらずもっと視野を広げて探せば、いくらでも理解者は居たんだなと気づきました。とは言っても、今現在働いている方々は、他方面の方と交流を持つ時間も機会もなかなか無いかもしれません。ただ、今はネット環境も整っており、何処からでも情報発信出来るチャンスはあると思うので、狭い社会の中で苦しまず、繋がりを広げて欲しいと思います。
【今後の展望】
一昨年末から私たち夫婦で幕内先生の講演会を香川で開こうと動き始め、昨年3月に1回目・8月に2回目の講演会を開き、賛同者の協力を得て香川支部を発足。そして、今年に入り香川支部としては初めての講演会を4月に開催しました。すると、この間にも高松市内の私立の保育所が完全米飯給食へと踏み切ってくれたそうです。とても嬉しい報告でした。
今後は、とにかく講演会を香川県内で開催し続け、一人でも多くの方に幕内先生のお話を聞いて貰いたいと思っています。そして、子ども達を取り巻く食環境が改善されることを願うのみです。 (おわり)