top of page

学校給食の裏面史

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.17」(前編)     

                   鈴木猛夫

 日本最大の栄養学校であり、多くの栄養士を搬出してきた女子栄養大学、同短大、香川栄養専門学校などのいわゆる香川栄養学園は戦後の栄養教育のメッカともいえるほど大きな指導的役割を果たしてきた。創立者の香川綾先生は国の栄養審議会の委員として長く栄養行政に大きな発言力を持ち戦後の栄養学普及の為に献身的な努力をされ、その功績は高く評価されてきた。 
  しかし筆者は綾先生の果たしてきた役割に大きな疑問を持っている。一生懸命教育された現代栄養学は日本人の体質に合わない欧米流栄養学であり、日本では広めるべき内容ではなかった。そしてもう一つ懸念される点は食品公害に対する綾先生の静観的な態度である。
  昭和40年代以降、食品添加物の危険性等々の食品公害問題はマスコミで広く報道され、大きな社会問題になっていた。それらの公害問題について筆者は当時、食生活関連の雑誌記者だったこともあり、綾先生の動向に注目していた。世評では日本人の栄養改善に大きな功績を果たしたという肯定的な評価が一般的だが、しかし注意深く見てきた筆者には綾先生が公害問題についてあまり発言されないことに納得がいかない思いだった。
  その理由は後で分かったのだが綾先生の栄養学校は前号にも書いたように製油会社、製粉会社、化学調味料メーカーなど種々の食品業界の支援を受けて創立されたことに関連する。創立当時の苦しい状況下で手厚く支援してくれた食品会社に対する配慮からか、食品公害に果敢に挑むという姿勢が希薄であったように思う。綾先生に限らず当時の栄養関係者はおおむね深入りすることを避けていたように思うので綾先生だけの問題ではないが、しかし影響力が大きかっただけに責任も重い。 

 
  (おむすび通信No.17より抜粋) 
   
 

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.17」(後編)     

                   鈴木猛夫
  

 綾先生は戦前から月刊「栄養と料理」誌を発行し栄養思想普及の先頭に立ってきたが、この雑誌でも食品公害についてあまり言及してこなかった。そんな綾先生に対し読者や栄養学校の生徒、卒業生にはそのことに対する不満はなかったのだろうか。その編集方針について綾先生はこう述べている。

  「『栄養と料理』でとりあげなくてもいいようなもの、ほかの雑誌で安易にとりあげているようなことは、そんなに記事にする必要はないというかたくなな態度を取っています。たとえば、食品公害が話題になり始めた昭和48年ごろにも、私は『栄養と料理』の編集者にこんな話しをしています。『この雑誌では栄養学の根本的なことは、いつも繰り返して書いているし、問題があればほかの雑誌に先駆けて究明しているのだから、時流に乗って大騒ぎすることはありません。読者がこの雑誌に書いてあることをよく読んで、ふだんから守ってもらえばまちがいはないんですから』と。こういう編集方針なので、公害運動や婦人問題などに関心がある人にはものたりない感じで、それが読者層を狭めているかもしれません」(「栄養学と私の半生記」昭和60年、女子栄養大学出版部刊)

  「栄養学の根本的なことはいつも繰り返して書いている」というその根本的なこととは欧米流栄養学の優位性についてであり、「問題があればほかの雑誌に先駆けて」究明してこなかったからこそ公害運動に関心のある人が物足りないと感じてきたのではなかったか。
  食品公害について「時流に乗って大騒ぎすることはない」として深入りすることを戒めているため、「この雑誌に書いてあることをよく読んで」いたのでは肝心なことが分からなくなるのではないか。
  食品業界の支援を受けてきた栄養学校だっただけに食品公害問題については出来れば素通りしたい気持は分かるが、これでは自ら社会性を放棄したようなものであろう。本来栄養指導は食品会社の存在に左右されるべきものではない。
  伝統的な食生活を捨て欧米流栄養学を普及させて戦後の食生活をおかしくさせ、食品公害からは目を背け、社会性を失わせるような栄養士を育てる教育をしてきたのが栄養学校の大きな「功績」ではなかったか。 

 
  (おむすび通信No.17より抜粋) 

 

bottom of page