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学校給食の裏面史

「アメリカ小麦戦略 No.2」(前編)      

 

アメリカの農業は歴史的に見ると戦争と戦後の復興援助を契機として発展してきた。イギリスからの独立戦争、南北戦争、第一次大戦などで大量の農産物が消費されアメリカ農業興隆の一因となった。第二次大戦中アメリカでは農業従事者の約500万人が兵役につき、人手不足を解消するため農業の機械化、大型化、省力化、肥料増などが一段と進んだ。戦後は農業機械代金支払いのため常に一定量の生産を維持しなくてはならず過剰生産が慢性化していた。国内消費だけでは消費しきれず常に輸出が必要であった。 戦後、疲弊したヨーロッパの復興計画いわゆるマーシャルプランにアメリカは総額120億ドルの巨費を投じ大量のアメリカ農産物がヨーロッパで消費され1952年に大成功のうちにこの計画は終了した。51年から始まっていた朝鮮戦争も53年には終結し、同時に農産物のハケ口が無くなり過剰在庫は深刻化した。1950年代小麦、綿花、乳製品などの農産物の在庫総額は2兆円に上り、倉庫代だけで一日2億円以上、倉庫不足から大戦で活躍した多くの輸送船が倉庫代わりに使われたり、更には路上に野積みするなどで余剰農産物対策は急務であった。 当時国際的に小麦価格は低迷しカナダ、オーストラリアなどが価格ダンピングで輸出攻勢をかけアメリカの小麦輸出は困難な状況にあり何としてでも他国より有利な件を提示し余剰農産物の滞貨を処理しなければならなかった。

「アメリカ小麦戦略 No.2」(後編)      

 

  アメリカでは、農民票が大統領選挙を左右するとも言われるほどで、早急な対策が大統領に求められていた。当時の大統領はカンサス州の農民出身であるアイゼンハワーであった。朝鮮戦争終結翌年の54年彼は余剰農産物処理法(正式名称農業貿易促進援助法)を成立させた。これは敗戦で疲弊した国にアメリカの余剰農産物をその国の通貨で売却し、代金はその国の経済復興に当てる、というものである。つまりドルが無くても円でアメリカ農産物が購入でき、しかもすぐ払う必要が無く後払いでもいいという有利な条件であった。いかにアメリカは余剰農産物処理に苦労していたかが分かる。 ところがこの法案の本当の狙いはそれだけではなかった。売却代金の一部をその国の市場開拓費にアメリカが自由に使うという条件付きだったのである。ここにアメリカの真の目的があった。 この法案でアメリカは日本への農産物大量輸出が容易となり、学校におけるパン・ミルク給食が定着し、食の洋風化の第一歩が始まったのである。学校給食はアメリカ側の農産物事情によるところが大きかったという点をしっかりと見る必要がある。 巨額な市場開拓費によってキッチンカー、パン職人育成、パン食普及宣伝などの諸活動が活発に行われることになり大量のアメリカ農産物が日本に輸出され急激な食の洋風化は一気に進むことになったのである。それについては次号で詳しく取り上げたい。

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