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学校給食の裏面史

「アメリカ小麦戦略 No.3」(前編)      

  昭和21年から始まった学校給食は八大都市では定着してきたものの、その他の地方都市では定着が遅れていた。食糧不足、資金不足の日本としては何としてもガリオア資金やアメリカからの無償援助小麦が頼りであった。 これに対しアメリカ側は「日本政府がパン給食を今後とも強力に推進するならば無償援助を続けよう」という条件を持ち出し、これに対し日本側は25年10月「学校給食は重要な役割を果たしている。日本政府は将来この育成に努力を払う」とアメリカ側に回答した。閣議で決まった了解事項であるだけに重みがあり、以後日本側はこの約束に縛られることになった。アメリカは意図的に日本側にパンとミルクという学校給食のレールを敷いたのである。26年2月から地方の都市部でもパンとミルクという完全給食が拡大された。 ところが同年6月日本はサンフランシスコ講和条約を結び形の上では占領時代に終止符を打ち独立国となった為、同時にガリオア、エロア等の非占領地援助物資のみならずアメリカからの無償小麦提供は終結した。アメリカとの間にパンとミルクという学校給食の継続を約束している日本政府は大いに慌て、それらの食糧を早急に手当てする必要が生じた。 日本政府は全額国庫負担で小麦、ミルクをアメリカから購入して学校給食継続をはかった。しかし財政窮乏の折大蔵大臣池田勇人は国庫補助打ち切りを主張し紛糾した。結局文部省の抵抗にあい翌27年小麦粉のみ半額国庫負担になった。 (おむすび通信No.3より抜粋)

「アメリカ小麦戦略 No.3」(後編)      

そのため給食は有料となり父兄の負担増加で給食辞退者が全国で210万人となり「学校給食の危機」が叫ばれた。翌28年には台風13号の被害に加え稲の大凶作が続き自給食糧が危うい時期であった。欠食児童救済は大きな社会問題に発展した。翌29年5月には学校給食法が成立し、パン・ミルク給食路線が確定した。

 この昭和25年から29年の学校給食法成立までの過程でアメリカは官民両面から日本側にパン・ミルク給食推進の水面下での工作を続けた。さらにアメリカは余剰生産物を大量に日本国内で消費してもらうにはパンとミルクの給食を農村部にも広げるべきだと判断した。
 昭和32年アメリカは文部省所管の財団法人・全国学校給食連合会との間に学校給食の農村普及事業の契約をした。連合会にはアメリカ側から活動費として5735万円が支払われ、農村部の小学校にパン・ミルク給食普及の活動が開始された。学校の教師、父兄等を集めてパン食の効用についての講習会が頻繁に開かれ昭和37年までに参加者は23万人にのぼり、農村部でのパン・ミルク給食普及の土台は作られていったのである。
 この時期アメリカのベンソン農務長官も学校給食の視察に訪れている。アメリカはいかに余剰生産物の売り込みに懸命になっているかをアメリカ国民、特に農民たちにアピールする必要があったのである。それが選挙での票につながるのである。パン・ミルク給食定着までの過程を見てくるといかに日米の利害が一致した結果であるかがよく分かる。

 
  (おむすび通信No.3より抜粋)

 

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