学校給食の裏面史
「アメリカ小麦戦略 No.4」(前編)
今までの3回の連載で何故学校給食がパンとミルクという形でスタートしたのか、その理由について述べてきた。アメリカ側には農産物の慢性的な過剰生産、過剰在庫の問題があり、そのはけ口として日本の学校給食が標的にされ日本に懸命に小麦売り込み攻勢をかけた経緯があった。そして日本側には戦後の厚生省の方針として「粉食奨励」策があり、主食を米からパンへの転換を国主導で推し進めたかった理由があった。
この日本側の事情を詳しくみてみたい。厚生省が何故米から粉食(パン食)への転換にこだわったのかは、戦前の脚気論争、主食論争の経緯を知るとよく分かってくる。日本人は長い間米を作り食べ続けてきたが、米が南方から渡来した頃の食べ方は玄米か糠の部分を少し杵(きね)でついた分づき米(ぶづきまい)であった。
長い間、澱粉質である胚乳と糠と胚芽が揃ったまま食べていたが奈良、平安の時代になると玄米をより白くついて白米にして食べる習慣が一部上流階級で流行した。その結果脚気が流行し、原因が分からぬまま長く悩まされてきた。
江戸時代になると江戸、大阪等の都市部の庶民階級にまで白米常食が広まり脚気の流行は深刻な事態となってきた。脚気は穀類の胚芽等に多く含まれるビタミンB1不足による神経障害で足の神経麻痺、眠気、だるさ、無気力感、脱力感に始まり、更には心臓を動かす神経の異常が起こり心不全を起こして死にいたる恐ろしい病気である。
(おむすび通信No.4より抜粋)
「アメリカ小麦戦略 No.4」(後編)
明治時代中頃になると電気による精米機の登場で米は更に白く精白され糠と胚芽がまったく無い状態で食べることが一般化したため脚気は全国的な広がりを見せ、脚気と結核が二大国民病と言われたほど患者が多かった。年間の脚気病死者が1~2万人となり、明治政府も対策に苦慮した。
明治の末になるまで原因が分からず従って一度かかると適切な治療法が無く死を覚悟するほどの難病であった。明治期の栄養学者、農学者等によって脚気の原因追求の研究、論争が繰り返されまさに百家争鳴であったがやっと鈴木梅太郎等の努力で胚芽に含まれるビタミンB1不足によって発病するのだと分かり脚気論争にケリがついた。
となると今度はでは米をどういう状態で食べたら脚気は防げるのかという主食論争が巻き起こった。七分づき米がいい、胚芽米だ、いや玄米で食べるべきだという三つ巴の大論争の末、昭和14年七分づき米が法定米になった。
ところが戦後は法定米が白米となり、脚気の流行が心配されてきた。戦前の主食論争で白米が良いと主張した栄養学者はいなかったにも関わらず、戦後の法定米が白米になった理由は次回に述べるが、戦前白米常食で脚気に悩まされた経験から、日本人には米よりもパン食のほうが合っているのではと栄養学者や厚生省は考え、粉食奨励が国策として強く推進された。学校給食でパン食が勧められたのもこういう理由もあった。
しかしこれはとんでもない問題を招くことになった。
(おむすび通信No.4より抜粋)