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学校給食の裏面史

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.6」(前編)      
 

 今までの連載で書いてきたように戦後の昭和20年代に始まったパンとミルクという学校給食は当初は戦後の食糧難時代にガリオア、エロアの資金援助、ララ援助物資やアメリカの善意による食糧支援を得て欠食児童救済を目的にスタートした。しかし27年サンフランシスコ講和条約の発効(締結は前年)とともに日本は独立国となりアメリカを初めとする諸外国からの援助は終りをつげた。食糧難が徐々に解消されつつあったとはいえ国家財政は逼迫しており学校給食の全国的な展開は困難な事情があった。昭和30年代になるとアメリカは占領中に行なった善意による食糧援助ではなく独立国に対するビジネスとして、猛烈な小麦、家畜飼料等の売り込み作戦を展開した。


 当時アメリカは農産物の過剰生産、過剰在庫が政治問題化していてそのはけ口を外国に求めていた。倉庫だけでは収容し切れず戦時中に活躍した輸送船まで動員して保管に努めたが、それでも足りず一部では路上に野積みされるほど慢性的に生産過剰であった。


 アメリカ西部に位置するオレゴン州は小麦生産地帯であったが、東側一帯に広がるロッキー山脈にさえぎられ国内消費が不振であった。そこで太平洋を隔てた日本への小麦売込みを熱心に模索していた。オレゴン州の小麦生産者組合は若き弁護士リチャード・バウムを雇い日本への小麦売り込み作戦に乗り出した。バウムは数十回の来日で、PL480(前出)で捻出された市場開拓費を有効に使って日本に対する下工作を展開した。日本人の食生活欧米化や学校給食に果たした彼の「功績」はあまりにも大きい。

 
  (おむすび通信No.6より抜粋)

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.6」(後編)      
 

 バウムはまず日本人にアメリカ小麦によるパンや麺類、ケーキなどの味を覚えさせることが必要と考え、キッチンカーを日本中に走らせることにした。キッチンカーとは大型バスを改造してプロパンガスから調理台まで一切の台所用具を積み込んで、野外でも料理講習会が出来るようにした料理講習車である。
  この車は当初は厚生省栄養課長に昇進していた大磯敏男氏が日本人の栄養改善を目的に走らせていたが財政難から運行の継続が難航していた。それにバウムが目をつけ日本の政財界に対する綿密な下工作の末、食材にアメリカ産の小麦と大豆を使うことを条件に新たに12台のキチンカー製造、運行継続に要する1億数千万円の巨費を日本側に提供し運行にこぎつけたのである。
 戦後の栄養改善運動の先がけとなる歴史に残る大事業であり全国の栄養士、保健婦が動員され各地でキッチンカーによる料理講習会が開かれ食生活の欧米化は一気に進んだ。この事業は一般には厚生省の仕事として行なわれたものと解釈されていたが、実はアメリカ農産物売り込みの為の宣伝カーだったのだ。しかしアメリカの資金提供については内緒にされた。何故なのか。この点について栄養学普及のために永年活躍されてきた東畑朝子先生に尋ねてみたことがある。それに対して先生は「このことはみんな隠したがっている」と正直に答えてくれた。何故隠す必要があったのか。戦後日本人の食生活は短期間に急速に欧米化したが、実はこの「隠したがっている」事実にこそ大きな鍵が隠されているのである。

 
  (おむすび通信No.6より抜粋)


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