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  学校給食は必ず変えられる

『私が学校栄養士になったわけ』

(匿名)関東 耕作

①  第一回 栄養士との出会い~大学院へ

 はじめまして。若輩者ですが数回に渡りよろしくお願いします。

 私が“栄養”という世界と初めて知ったのは小学校6年生の時でした。当時私は小学校の少年野球クラブに入っていました。(野球は高校まで本格的にやっていました。)クラブのコーチは大半が誰かの親なのですが、後輩のお父さんコーチの中に栄養士を仕事にしている方がいらっしゃったのです。話がとっても面白かったので私はその方と親しくなりました。中学生になってからもやりとりがあったので、その頃栄養素の話を聞き、出版した本をもらい、仕事について教えてもらいました。こうして「スポーツと栄養」という枠組みで栄養士について興味を持ちました。

 

 私は家庭もわりと栄養の世界に親しみやすい環境だったと思います。母は専業主婦で健康志向派・自然派でした。だから健康に配慮された物を食べてきたと思います。弁当が必要な時は必ず作ってくれました。そのせいか中学生になるまでコンビニのおにぎりを上手く破って海苔を巻くことができませんでした。また、祖父母が畑で野菜を作っていたことから、土・野菜が近くにありました。うどんを足で踏んで作った記憶があります。

 

 そして、高校生になり一段と栄養と距離が縮まります。高校球児の頃は部でも栄養の話を教わりましたし、自分でもどうやったら早く疲れが取れるのかとか考えておりました。野球を終えた後も、スポーツと栄養の関係に興味を持っていたので、それが学べる大学に行こうと決めました。しかし、今ほど管理栄養士養成大学もなく、家から通えるのは家政学部の「料理と栄養」というものばかりでした。そこで全国を調べた末、徳島大学ならスポーツと栄養について学べると書いてあったので、一念発起して勉強しました。

 

縁あって入学したのはよいものの、まもなく動機であった「スポーツと栄養」に関しては実際の所やっていないことを知りました。ただ、大学生活は楽しく、また自分が第一線でスポーツをしなくなってしまったこともあり、次第に関心は薄れていきました。替わりに大学の特色である、医療と栄養、研究というものに興味を抱くようになっていきました。

 

 大学時代のターニングポイントは2つの本との出会いです。1冊は大学1年の冬に母に勧められて読んだ、『病気にならない生き方』(サンマーク出版)です。野球をしていたので牛乳信仰は人一倍強かったと思います。その牛乳が身体に悪いという内容にとても衝撃を受けました。しかし、大学で学ぶ栄養学ではそのような話は出てきません。行動には起こしませんでしたが、このギャップをどうにかしたいと思いました。もう1冊目は、大学3年の冬に読んだ『フィット・フォー・ライフ』(グスコー出版)です。この本からは相当な影響を受けました。自然の摂理のような話に共感したので食事法も実践しました。すると私自身太っていた訳でもないのにどんどん体重が下がっていきました。(暫くしてこれ以上痩せるのは危険だと思い止めました。)こうして自分の身体の変化を体感することでより一層、この学校では教わらない、裏の栄養学にますます興味を持ちました。

 

 そして進路を決める時期が来ました。当時、私は研究というものに惹かれていたので進学しようと考えておりました。未知なるものを追いかけているのが楽しかったのです。ただ、このまま大学院へ進学しても、私が知りたい裏の栄養はわからないだろうなぁと思いました。そこで、少しでもそれらに繋がりそうなことはないだろうかと調べていくと、東洋医学を見つけました。既に代替医療(CAM)についても一通りの知識があり、食べ物や栄養を重んじる考え方に共感を覚えていたので直ぐに問い合わせました。すると、幸いにも大学院生の受け入れを検討しているとの応えが返ってきました。こうして「研究」と「裏の栄養学」という2つのキーワードを両方諦めることなく、新たな進路を見つけることができました。  (つづく)

 

第2回 裏の栄養学の探求~栄養教育に対する考え方

 今回は私の栄養教育に対する考え方をお伝えしたいと思います。
 大学院生として研究をする傍ら、時間を見つけては興味のある本を読み、学校で教えてくれない裏の栄養学の勉強をしていました。そうしているうちに、幕内先生のことを知りました。最初はブログを読んでいるだけでしたが、セミナーがあることを知り参加しました。2009年7月のことです。
 ここで幕内先生の話を聞いたとき、「この方は私がこれから1つずつ自分の目で見て、体で確かめていきたいと思っている世界を既に見てきた人だ。」と直感的に思いました。この出会いがきっかけとなり、私は知りたかった裏の栄養学の世界を学ぶ術を得て今日に至ります。
 それまで私は漠然と理想食というものが存在するのではないかと考えておりました。今となってはどれだけ自分が浅はかに考えていたのかと思うくらい恥ずかしい話です。その話は割愛するとしまして、このように私が考えてしまった一因が今の栄養学教育にあると思います。それは科学信仰という問題です。
 私の卒業した大学は研究に非常に重きを置いていました。このため入学して早い段階から研究の重要性を説かれました。研究とは“実験→明らかにする→新しいことがわかる→次の実験”というサイクルです。こうして科学的に明らかにしていくことこそが、よりよい食事を理解する方法であると無意識的に刷り込まれていった気がします。そしていつしか科学に絶対的な信頼と権威を抱くようになりました。
 科学信仰が強まると、例えばこんな弊害が現れます。“栄養学的に等しい食品は代替できる。”実際、ほとんどの学校でこのように教えていると思います。一番身近な例が、主食の米とパンの扱い方でしょう。現在は粒食よりも粉食の方が血糖値の上昇が高いことから米の方がいいと言われますが、これはあくまで代謝作用を考えた場合の話です。だからこの作用が同じとなるとやはり米⇔パンとなってしまいます。パンが粉食で血糖上昇が高いなら、全粒粉のパンにすればいいという論理を持ち出す方がいるのはこのためです。米とパンでは地域や食文化が異なるという発想は出てきません。これは米の消費の為に米粉パンを奨める考え方とも似ていると思います。そして、この考え方が一層進んだ結果、食べ物(元生き物とわかるもの)と栄養補助食品・サプリメント(元生き物とわからないもの)の代替をするようになったのではないかと思っています。
 幕内先生は「FOODは風土が決める」とおっしゃっています。しかし、残念ながらこの考え方をほとんどの栄養士は持っていません。「FOODは栄養素で決める」と思っています。このような考え方が普及していかない要因にも科学信仰がある気がします。栄養士は食事を考えるときにまず必要エネルギー量を考えます。これは数字で表すことができます。そしてこれを求めるために、身長・体重・運動量(栄養士は活動係数といいます)などを用います。勿論全て数字で表すことができます。このようにあらゆるものを数値化して表現していきます。一方、風土は数字では表わすことができません。また、遺伝子解析が終わったといえどもまだ個人差も数字では表せません。
 ここで問題なのは数値化できないこと軽んじている所だと思います。松井病院食養内科の医師であった日野厚氏が書いた『人間の栄養学を求めて~真の健康食と絶食療法~』(自然社)には、食生活条件の決定過程を示した図があります。ここでは、まず生物として如何に生きるべきかを考え、次に人間として如何に生きるべきかを考え、そしてその地域に長年居住してきた民族・個人としての在り方を考えた上で、経済的条件や性別、年齢を考えて食生活を決定すべきであると説明されています。つまり、先に風土を考えた上で今栄養士がしていることをしましょうよと言っておられます。この考え方を広めていくことができればいいと思っています。
 私は今でも科学に信頼を置いています。それでも数値化できないものを科学よりも重んじるべきだと思います。そうすることで栄養学も医療もそして現代に根付いた近代科学もより良いものになっていくと思います。

第3回 病院へ就職~学校栄養士へ転職

 大学院生の時に幕内先生と出会えた御蔭で、進学の目的であった「研究」と「裏の栄養学」という2つの事柄に対して、自分なりに区切りをつけることができました。こうして心置きなく就職を考えた訳ですが、一つの葛藤がありました。それは、“栄養士として仕事をしていくか否か”というものです。幕内先生から以前、「優秀な生徒ほど管理栄養士にはならない」という話を聞いたことがありました。待遇・やりがい・役割などに魅力が無いということです。似たような話は大学時代も聞きました。だから大学の教授は進学を勧めておりましたし、母校の卒業生で管理栄養士の免許を使って働いている人は2割未満だと思います。これは他の大学でも傾向は同じです。コメディカルの資格を要請している機関で唯一、その資格を使う人が少ないのです。看護師になる大学を卒業して2割しか看護師にならないという話は聞いたことがないと思います。そんな内部事情を知りながらも、私は免許を使う道を選択しました。理由は、個人的に色々あるものの、一度も経験せずに外側から栄養士の批判だけをするような人間にはなりたくないという思いがあったからです。
 
ただ、無事に希望通りの病院へ就職できたにも関わらず、仕事を始めて未だ間もないうちから、上司・先輩や組織との考え方にズレがあるということを感じました。少し脱線しますが、私が大切にしている言葉を紹介させて下さい。

『神よ。変えるべきものを変えるだけの勇気を。変えることのできないものを受け入れる冷静さを。そしてこの両者を識別することのできる知恵を与え給え。(ラインホルド・ニーバー)』

病院においてこの考え方の違いは、私が受け入れるべきなのか、それとも貫いていくべきなのかということを自問自答しながら仕事をしていました。ここで私が悩んだことに関して皆様に役立ちそうなことを取り上げたいと思います。

① 病院は二次予防が中心…当然といえばそれまでですが、私はもっと一次予防にも力を注いでいる場所と思っていました。ただ、日本の7割の病院が赤字経営と言われています。故にお金にならない予防よりもお金になる治療が軸になるのは制度上の仕方ないのかもしれません。
② 病院の食事は楽しみ第一…最期の食事となる方もおられる以上、大切なことではあります。しかし、食事は危機回避さえすれば娯楽でいいというのでは医療職とは呼べません。時代は変わってきているとはいえ、現実はこんなものでした。このような傾向はいい病院(西洋医学の保険診療で黒字の病院)であればあるほど強いと思います。
③ 治療食しか関心がない…ほとんどの栄養士は人間が病気にならないための食事、ヒトに適した食事は何か考えたことはありません。だから栄養指導でも危機回避の方法だけを繰り返し伝えることになります。

 私は病気にならないためにはどのような食事をしたらよいかということに興味を抱き、勉強を重ね、風土に根差した食事の大切さを知りました。また、食事で病を治そうとする東洋医学や代替医療が好きです。食事だけで病を克服してきた人の存在も知りました。そして食事の力が最も発揮されるのは、病気になってからではなく未病の段階、すなわち一次予防の時点です。だからそのような活動に携わりたいと考えてきました。しかし、残念ですが、このような理念を抱いて働くことのできる病院は極めて稀です。そして世の中に受け入れられるには医療制度改革という途方もない壁があります。一方、学校給食は教育の下、一次予防活動が可能であります。御存知のとおり問題は色々とありますが、こちらは変えていくことも可能です。そして、こうした心強い会もあります。
また、「短期的には良くても長期的な視野で捉えると本当に良かったのかはわからない」というようなことは、分野を問わず世の中に多数あります。栄養の世界では戦後の栄養改善運動が典型例でしょう。そんな中、『完全米飯給食』の実現は、100年後の日本にとっても間違いなく良いものであると確信しております。
このような思いから、どうせ理想の職場などないのなら、変えられない世界より変えていける世界で、未来に責任を持てる仕事をしたいと考え、病院を辞めて学校栄養士になることを決めました。
 

 

1985年生まれ。

徳島大学医学部栄養学科卒業。

北里大学大学院医療系研究科東洋医学専攻修了。

2011年~管理栄養士として地域拠点病院勤務。

2013年~学校栄養士として定時制高校勤務。

 

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