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学校給食の裏面史

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.15」(前編)     

                   鈴木猛夫

 前号までの連載からも分かるように、日本の戦後の食生活が急速に欧米化した原因はアメリカの小麦戦略による影響が大きかったが、しかしその作戦を一生懸命後押ししたのは当時の厚生省や栄養関係者だった。もうこれからの日本人の食生活は戦前までのご飯に味噌汁、漬物という「貧しい」内容ではなく、パンに牛乳、肉類、乳製品という欧米流の「進んだ」食生活が望ましいと考え、国をあげて「栄養改善運動」に取り組んだのである。
  その運動の柱はパン、肉類、油脂の奨励であり、いずれも戦前までの日本人の食生活にはなじみの薄い食品で、正に欧米流食生活の普及をはかるというものであった。それらの食材の供給元はアメリカで日本人の食生活が欧米化して最も喜ぶのはアメリカであったが、日本側の栄養関係者もこの変化を肯定し積極的に推進したのであった。アメリカ側の小麦戦略と日本側の栄養改善運動は正に日米の利害が一致した結果の日米共同作業であった。
  当時、厚生省も栄養関係者もおしなべて日本の伝統的な食生活よりも欧米流の「進んだ」食生活に一刻も早く変えることが日本人の健康増進に貢献すると固く信じて栄養教育を行なったのである。ご飯よりもパン、味噌汁よりも牛乳、そして豆腐、納豆よりも肉類、漬物よりも乳製品という食形態に移行することが食の近代化につながると心底信じていたのである。そのような欧米型食生活礼賛ムードにみんなどっぷり使ってほとんど疑問を持たなかった。
  当時この流れに抗してまでやはり日本型食生活が大事だという栄養学者はほとんどいなかった。そのくらい皆欧米型食生活に目が向いていたのである。多くの国民にとっても欧米流の「豊かな」食生活はあこがれであり、味噌汁、漬物を軽視する風潮は次第に広まっていった。だからこそアメリカ小麦戦略は予期以上の成功を納めたのであった。
 

 
  (おむすび通信No.15より抜粋) 

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.15」(後編)     

                   鈴木猛夫
  

 厚生省の栄養課長として栄養改善運動の先頭に立って活動した大磯敏雄氏の食哲学に関してはこの連載の№9、10、11の3回にわたって取り上げた。氏は小麦食(パン食)の優位性を強調しその普及に尽力し戦後の食生活欧米化のために多大な「貢献」をされたが、民間の立場で戦後の栄養改善運動のために尽力をされたのが香川栄養学校の創立者である香川綾氏である。
  戦前は主食論争で胚芽米推進に熱心だった夫の香川省三氏と共に食生活改善の為に活動した。昭和8年に家庭食養研究会を発足させ12年に女子栄養学園へと発展させ胚芽米を主食として、胚芽米4、野菜4、魚1、豆1の割合という日本の伝統食に基づく食生活を指導していた。ところが戦後は一転して欧米型の食生活普及の為に尽力するようになった。
  例えばその普及手段として食品群をいくつかに分類しそれらを過不足なく摂取することを勧めるという方法を指導した。五つの食品群(昭和23年頃)、七つの食品群(25年頃)、四つの食品群(31年頃)、そして昭和45年頃から四群点数法という独特の分類法を採用し今日に至っている。いずれの分類法でも牛乳、卵、乳製品などの有用性を強調する意味からこれらの食品を第一群に分類しさらに肉類、油脂類を積極的に勧めるという指導内容で、戦前までの食事指導とは様変わりの洋食志向であった。
  戦後の栄養教育の面で指導的な役割を果たしてきた日本最大の栄養学校だけに卒業生も多く日本人の食生活に与えてきた影響は大きなものがある。綾先生の栄養指導が戦後急速に洋食へと変化していった裏にはアメリカの存在があった。それについては次号で述べたい。
 

 
  (おむすび通信No.15より抜粋) 

 

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