top of page

学校給食の裏面史

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.16」(前編)     

                   鈴木猛夫

 現在、日本は小麦、大豆、トウモロコシの9割以上をアメリカをはじめとする諸外国からの輸入に頼っていて、自給率を押し下げる大きな要因になっている。それら三品は戦後アメリカが最も諸外国に輸出したかった農産物であり、その最大の市場となったのが日本である。アメリカは様々な手段で日本への売込みに成功したが、日本側栄養関係者も大きな手助けをしたのである。
  ご飯に味噌汁、漬物、魚貝類、海藻類、おやつはサツマイモなどという日本で産出される食材ばかりが消費されるような食生活ではアメリカ小麦戦略は決して成功しないわけで、何が何でもアメリカ産農産物であるパン用小麦、家畜飼料のトウモロコシや大豆カスなどが大量に消費されるような食生活こそ望ましかったのである。栄養学校ではパンや牛乳、肉類などの畜産物の優位性が声高に語られ、その線に沿った欧米型栄養学が教育され、近代的で望ましい食生活として国民にも積極的に勧められた。欧米型栄養学こそ正にアメリカ側も日本側栄養関係者も等しく日本で普及するのに望ましい栄養学だと考えたのである。栄養学校は正にそんな欧米流栄養学啓蒙の場であり、戦後の食生活を根本からおかしくさせた出発点ともいえる。
  パンの原料は小麦であり、牛乳、肉類、乳製品の元になるのは大豆カス、トウモロコシ等の家畜飼料、さらに油の原料となるのは大豆、トウモロコシである。この三品を日本ですんなり消費してもらうにはパンや畜産物、油脂類がいかに優れた食品であるかの啓蒙活動が必要であった。
  昭和26年、香川綾先生は大変なご苦労をされて女子栄養短大を創立させたが、その苦しい時に裏で資金面、精神面で大きく支えたのが31の食品会社、個人24人からなる後援会組織であった。後援会長は豊年製油社長、副会長に味の素社長、理事に日清製粉社長など有力者が並んだ。綾先生の自伝「栄養学と私の半生記」によると栄養短大設立までの過程は困難を極め絶望的なまでの状況であったという。そんな時、物心両面で支えてくれた後援会メンバーの暖かい支援にはこの上なく感謝の念が生まれたことであろう。何とか恩返しをしたいという気持が生まれても不思議はない。
 

 
  (おむすび通信No.16より抜粋) 
   

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.16」(後編)     

                   鈴木猛夫

 戦後アメリカは日本の食品業界育成の為に大変な努力をした。中でも製粉会社、油脂会社、加工食品メーカーの育成には熱心だった。いずれもアメリカ農産物消費に大きく貢献する業界だったからである。それらの業界が綾先生の栄養学校設立に尽力したということは当時の情勢からみてアメリカ側の意向も働いたとみるのが妥当だ。アメリカ農産物消費に大きく貢献する栄養学校の設立はこの上なく頼もしい存在に見えたことであろう。
  戦前まで「胚芽米4、野菜4、魚1、豆1」の日本型栄養学普及に尽力していた綾先生はこうして戦後は一転してパン、牛乳、肉類、乳製品、油脂類などを積極的に勧める欧米型栄養学の普及に全力をあげることになった。
  アメリカでPL480法案(前出)が成立し日本に対する本格的な小麦戦略が始まった昭和32年に綾先生はアメリカから招待され食物、栄養の教育関係機関、行政、施設などを研究視察している。アメリカはこの時期、PL480法案で捻出された膨大な対日工作資金を使って日本の栄養関係者、畜産関係者、食品メーカーを数多くアメリカに招き、パンや畜産物、油脂類が栄養的にいかに優れているかをアピールしている。
  当然日本の栄養行政にも反映されることになり、栄養学校を管轄する厚生省の意向が強く働いた栄養教育が行われた。アメリカ産農産物を大量に消費するのに都合の良い栄養学が見事に日本で定着し栄養改善運動は成功した。しかし今その弊害が欧米型疾患の蔓延、深刻化という状況となって随所に現れている。さらに食糧自給率は先進国中最低の4割にまで落ち込んでしまった。農林省などが地産地消運動等によって自給率向上を目指しているが、それには欧米型栄養学に頼る今の食生活の見直しから始めるべきではないだろうか。 

 
  (おむすび通信No.16より抜粋) 

 

bottom of page