学校給食の裏面史
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.8」(前編)
鈴木猛夫
アメリカの高度な小麦戦略による戦後の食生活改善運動で主食を米から麦への大転換が意図的に行なわれたが、この動きに異論を唱える勢力も農林省内部にはあった。昭和30年代には米の需給は安定してきて、終戦直後の食糧難時代とは違う状況が生まれてきていた。一部ではあったがアメリカ主導の粉食奨励ではなく米を主体とした食生活を推進すべきとの意見もあったのだ。そのため農林省内部では意見がまとまらず小麦輸入はすんなりとは進まなかった。
しかしアメリカ側は農林大臣、河野一郎に対する水面下の工作を繰り返し、河野の一喝でアメリカ小麦導入が決まったといういきさつがあった。アメリカ小麦を日本に長期、安定的に受け入れることで、農業関係者には莫大な資金が流れることになっていて、河野のまわりには利権がらみの噂が飛び交っていた。
小麦戦略を裏で積極的に推し進めたアメリカ西部小麦連合会のリチャード・バウム(前出)はアメリカ農務省に宛てた手紙(1955年10月)で河野のことを「農林大臣の河野一郎氏は、日本一の政治力を持つ男として知られ、まったく冷酷で、そして大変野心家であるとの風評が高い。信頼すべき実業家の話によれば、河野氏は自分の地位を利用しては、彼個人のふところや自民党に入る利得を稼ぐのが常であるという」と評している。
(おむすび通信No.8より抜粋)
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.8」(後編)
鈴木猛夫
河野はアメリカの余剰農産物処理法PL480(1954年成立、前出No.2参)を活用すればアメリカから農産物を購入する際の一部代金を農林省が関係する農業復興策に使えると判断していた。PL480法案はアメリカが何とか諸外国にアメリカの余剰農産物を輸出しようとして有利な条件で輸出促進を意図した法案であった。つまりアメリカから小麦等を輸入すればその代金は後払いでよく、代金の一部はその国の復興のために還元されるというものであった。河野はここに着目したが故に、農林省内部の一部の反対を押し切って強引にアメリカ小麦導入を決めたのであろう。彼の脳裏には国民の栄養云々よりも還流される資金の使い道のほうにより関心があったようだ。
しかし小麦代金の一部は日本側が勝手に使えるものではなく、アメリカの農産物販売促進に利用されるという条件付きだったのだ。同じ手紙でバウムは農林省の働きかけについて「問題は農林省の頑固さだ。農林省は小麦の市場開拓をすべて自分たちに任せろと言ってきかない。こうした事業は日本政府が行なうのが筋で、外国の産業団体の監督は無用だという。原資200万ドル(7億円)の全てを委ねてもらえば、農林省がうまく諸官庁、貿易関係者、業界に配分して運営してやると頑張るのだ。農林省はこの資金がアメリカ政府の金で、アメリカの目的のために双方の利益になるように使われるものだという事実を全く無視している」と書き送っている。
国民の健康増進とは関係なく戦後の食生活改善運動発端の裏にはこんな事情もあった。
(おむすび通信No.8より抜粋)